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私は『幸せ!』 だから出来る 里子から里親に
(大阪市 N.M)

■プロフィール
 私が里子として児童養護施設から里親家庭に引き取られたのは今から25年前、母が55歳、私が5歳になる頃です。
 母には実子が3人いますが、私が引き取られた時には皆自立していました。母には養育里親として育てて貰い25年たつのですが、去年私が結婚した際に、主人にも理解をしてもらい現在も一つ屋根の下で暮らしております。その際、念願だった養子縁組をしてもらいました。
 その後、子どもを授かりまして出産、今5カ月になる男の子がいます。いずれは私も母のように里親をしたいと思っておりましたが、児童相談所から里子の依頼がありまして、現在、8歳で小学2年生の女の子をお預かりしています。母の指導の下、四苦八苦しながら、日々里親のことを学んでいます。

■幼少の頃
 私の実母は私を産んですぐにいなくなり、産院のベッドに置き去りにされた私は乳児院に預けられ、5歳まで児童養護施設(学園)で育ちました。とにかくやんちゃで学園内ではケンカばかり、同年代の子を傷つけることも度々あり、学園の先生達からは迷惑がられていたようです。
 施設での5年間の間に何度か里親家庭に預けられたのですが、3日ともたず返されていました。預けられた先の里親さんが、怒りながら「もう、こんな子お手上げです。明日朝一番に連れて行きますから」と怒りながら電話をしているのを、2階の階段から聞いていたのをかすかに記憶しています
 そんな頃、私は養父母の元に預けられました。学園の先生達は皆、問題児の私が3日で帰って来ないことを願っていたのだと思います。
 私が児童養護施設で育った頃の5年間は、普通の家庭で育った子とは違い、自分の物は自分の物、人の物も自分の物という感覚でいました。食にも卑しく、まだ5歳なのにお好み焼きを5枚は食べる有様でした。また愛情にも飢えていましたので、赤ちゃんがえりをし、五十歳をすぎた母のおっぱいに吸い付いたこともありました。しつけなど何もされていないうえに、落ち着きがなかった為、私を少し障害のある子だと思っていた方もおられたようです。

学校での日々
 小学校でも、やんちゃぶりはなかなか直らず、同級生のお母さんが苦情を言いによく来られていました。その都度、母が謝っていたのを覚えています。低学年の頃からか、皆と保険証の色が違うことが気になるようになりました。それと私が母のことをお母さんと呼んでいると、友達に「おかあさん?ちがうよ!おばあちゃんじゃないの?」と言われ、家と学校での呼び方を使い分けていました。だから家に友達が遊びに来ると、どちらとも呼べず、苦慮していました。
 中学生になると思春期でもあり、それまで以上に自分の生い立ちを気にするようになり、隠そうとするあまり嘘に嘘を重ねた時期もありました。どこに向けることも出来ない気持ちが非行や反抗に走った原因なのかもしれません。万引き・恐喝・暴行など。怒られる度に本当の親じゃないくせにと反発していました。非行や反抗で高校には行けない状況だったのですが、両親の尽力で奈良県内の私立高校に進学出来ることになりました。その際、母にお願いして表むきの名前だけを両親(里親)の名前に変えてもらいました。
 高校でも問題が絶えず、何度も停学処分になりました。卒業後は2年間、専修学校に通ったのですが、高校に引き続き寮生活だったため、かごの中から放たれた鳥のように自由奔放、毎晩のように飲み歩き、学校に行く頃は寝る時問で、結果、出席日数が足りず、条件付きの卒業となりました。
 専修学校2年目の時に弁護士事務所から一通の封書が届きました。中を見ると実の父の借金を私に返済するようにとの内容でした。当時、実の父は借金を残して他界し、実の母に借金返済を依頼したそうですが、出来ないとのことで、戸籍上長女の私の所へ借金返済の通知が来たのです。金額は350万円という大金でした。私を捨てた親の借金を何故私が返済しなくてはいけないのか?しかも顔も見たことがない親です。この時ほど心底親を憎み、恨んだことはありません。形だけの戸籍なんて、なくなってしまえばいいのに、と何度も思い、悔しい気持ちと悲しい気持ちでいっぱいになりました。心配でいっぱいの私を、母は「大丈夫!」と言って安心させてくれました。
 その後、何度も弁護士事務所と家庭裁判所に足を運び、当時学生だった私に返済能力がないことが認められ、払わなくて済みました。このときも母がいろいろと助けてくれました。

社会人となって
 卒業後、母の計らいで車の免許を取得し、少しでも人様のお役に立てるようにと、社会福祉の仕事を用意してくれたのですが、それを裏切り、家を出ました。家出をしては気が向くと家に帰るような状態が続きました。親に散々迷惑をかけ、合わす顔もなかった私を、両親は何も言わずただ「おかえり」と、いつも温かく迎えてくれました。私が少しずつ落ち着きはじめたのは二十代半ばで、家に戻ってからは、母の斡旋で知的障害者の総合施設で働き始めました。通信大学で資格も取得し、寿退社するまで6年間勤めました。
 幼い頃の私は自分の生い立ちから故、ハンディキャップを持った方たちを見ると、勝手に自分より不幸な人だと決めつけ、自分と見比べて勝ったような気持ちなる、少しゆがんだ性格をもっていました。しかし、自分の中にぽっかりと空いてしまっていた空洞を、年を重ねていく毎に両親の底しれぬ愛情が埋めていってくれ、満たされたのでしょうか、人を蔑んだりすることもなくなり、相手に優しく、困っている人に手を差し伸べることが出来るようになりました。
 働いている間、利用者の方の身の上話を聞く度に、私は「幸せ」なんだと思えるようになりました。障害があるが故に学校でも社会に出てからもいじめられ、親からも邪険に扱われたりするなど、血のつながった親子でも幸せじゃない人もいることを知りました。私は両親に出会い、かけがえのない愛情を沢山もらい、いつも温かく見守ってもらえている、これ以上の幸せはないじゃないか!!と気づいた時に、何かふっきれた気持ちになったのです。

■入籍のこと
 私は度々、両親に籍を入れてほしいと頼みました。しかし、母はいつも「ハイハイ」と言うだけで思うようにはしてくれませんでした。その当時は分からなかったのですが、自分の生い立ち隠しの為だけの入籍では駄目、私に生みの親に対する感謝の心を失わせたくなかったのだと思います。私に、産まれてきて良かった!と感謝出来る子に育ってほしいと願っていたのだと思います。母の口癖は「親を恨んではいけませんよ」でした。私は、生い立ち隠しの入籍ではなく、心底この両親の子になりたいと懇願しました。そして、私の結婚が決まった際に、やっと念願だった養子縁組を、父(養父)の命日の日にしてもらいました。
結婚に至るまでもいろいろなことがありました。主人に出会ってから付き合うようになるまで、なかなか言い出せなかったことがありました。それはやっぱり自分の生い立ちのことでした。どう思うのかな?もしかしたら嫌われるかな・・など。言うまでには時間がかかりました。しかし、主人には「なんやあー、そんなことかあー。俺はNちゃんの生い立ちと付き合う訳じゃないねんで。もっと大変なことかと思っていたわ」と言われ、真剣に考えていた自分が馬鹿らしくなりました。私が気にしていたことって他人からすれば案外ちっぽけなことなのかもしれません。しかし主人のような人達ばかりではないのも現状であり、だからこそ生い立ちということに捕らわれてしまうのです。
 母は私がどんな悪いことをしても、いつでも見守ってくれていました。手を挙げられたことも、感情的になって怒られたことも一度だってありません。常に私の幸せだけを願っていてくれました。だから私は幸せだ!!と感じることが出来たと思うし、幸せだからこそ、実の両親も恨まなくなったと思います。
 こんな私が子どもを産んで母親となりました。子どもが産まれてくるまで、産まれてきてくれた時の喜び、寝不足になりながら夜中に母乳をあげたこと、初めての笑顔、寝返りなど全ての出来事が宝物で、子どもの存在が私に安らぎを与えてくれています。この積み重ねが子どもを育てられるのだと思います。私が親になって思うのは、問題の多過ぎた私を両親が愛情いっぱいに育ててくれたことは並大抵の努力と忍耐ではなかったということです。私が親なら、私みたいな子はぶん殴ってやりたくなります。私が親としての経験を積むたびに、両親に対するこれまでの「ごめんなさい」の反省の気持ちと、こんな私をここまで育ててくれた感謝の気持ちで胸がいっぱいになります。

■里親さんに望むこと…
 ここ半年の間に、里子会で知り合った同じ立場の里子が2人、私を訪ねてきました。二人とも養子縁組で育てられたけど、学校や職場を途中で辞めてしまったので両親が怒ってしまい、離縁されてしまったそうです。家を追いだされ途方にくれてしまったとのこと…。マンションを借りるにも保証人がなく、どうしたらいいのかとの相談でした。その話を聞いた時は胸が張り裂けそうになりました。二人ともまだ二十歳を過ぎたばかり、私がしてきた非行に比べると学校を辞めたくらいで離縁までしなくてもいいのではないか…。着の身着のまま家を追い出さなくてもいいのではないか…。一人でも多くの里子達が「私は幸せだ」と感じてほしいと願うばかりです。里親さんの期待や目先の出来事ばかりに感情的にならずに、何よりもその子の幸せを願ってあげてほしいな、と。そして時には長い目で見守ってあげてほしいな、と思いました。
 私のようにこの歳になっても愛情いっぱい育てられている里子達はほんの一握りだと思います。何歳になろうと人は一人では生きていけないと思います。帰るふるさとがある、頼れる人がいることはかけがえのないことです。預かった里子の数を競い合うより、育てきった里子の数を競い合う里親さんが増えてほしいと思います。