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「私の里親観」
大津市里親会  副会長 村田潔

結婚して6年、結婚する前からデートに子どもを連れて行くほど、子どもが大好きな私たち夫婦に、子どもができなかったことから、子育てを世間並みに体験したいと言う理由で、昭和59年に里親登録をしました。ただ妻が看護師の仕事に生きがいを感じており、私も環境関係の仕事に生きがいを感じており、やめる訳にはいきませんので、共働きで育てると言う、強い意向を持っていました。しかし、児童相談所からは何の連絡もありません。そこで新聞で知った、主に養子縁組の斡旋を行っている社団法人「家庭養護促進協会」の大阪事務所に飛び込み、昭和60年度の大阪市家庭教育学級に入り勉強をしました。
 ここで初めて、血の繋がりのない子どもを育てることの難しさを知りましたが、それでも敢えて共働きで育てる、こうした考えをケースワーカーにぶつけてみました。すると「里親は子どもを選べますが、子どもは里親を選べません。だから子どもに代って、私たちが出来るだけ条件の良い里親に子どもを託します。共働きと言うのは大きなマイナス条件です」と、一蹴されました。

 それならば、二人とも働いていない土、日に子どもを預かってみようと、市内の児童養護施設で生活している、小4の女の子を週末預かってみました。隣家の女の子とも仲良くなりましたが、施設の方針が変わって里親宅に外泊することが難しくなり、1年半ほどで途絶えてしまいました。その後も親戚の子どもを、ある事情で週末に預かったりしていましたが、その子も中学生になると来なくなり、週末になると心にポッカリと、穴があいた日々が続きました。

 そして、その穴を埋めるように、今も一緒に暮らしている男の子がやって来ました。出会いは平成4年の暮れ、私たちの家の近くにある児童養護施設の子ども二人を、8日間預かったことから始まります。4歳のその子ともう一人、3歳の男の子、そして親戚の子どもたちも呼んで正月を迎えました。楽しい8日間が、あっと言う間に過ぎ去り、別れの日にその子が「オッちゃんの家へ、今度いつ来られる?またオッちゃんの家に泊まりたいワ」と、言いました。
 その子は生まれてからずっと施設で育っており、言葉が少なく、自分の意思を伝えることがなかなか出来ないため情緒不安定になり、気に入らないことがあればパニック状態になる子どもでした。そのためか幼稚園での集団生活も馴染めず、一人で動物相手に、または砂場で遊ぶような子です。その子が初めて自分の思いを主張したのです。私は「いい子でいたら、また泊まれるようにしてあげるヨ」と、言ってやりました。早速、施設の先生とも相談して、月2回ほど、週末に預かることを承諾してもらいました。
 このような子どもですから、最初の1年ほどは、妻が「しつけ」たら、私が「遊び相手」になり、妻が「叱る」と、私が「なだめる」と言う役割を演じました。小学校に入っても、まだまだ他の子どもと比べると、発達が遅れていることが分かりましたが、週末の私たちとの家庭生活だけでも、徐々にですが、明らかに成長していく手ごたえを感じていました。また、この頃になると毎週来るようにもなっていました。
 一方、その子との関係で施設への訪問を続けていましたが、その子と同じように、帰省や外泊がほとんどない子どもが、結構いることが分かってきました。このような子どもたちを週末などに預かり、家庭の味を知ってもらうために、施設と相談して、地域の社協や民生委員の協力により「週末里親の促進」の活動を始めました。この活動をとおして、その子以外の子どもも、週末預かるようになっていましたが、皆同じように、愛情に飢えていることがありありと分かり、親との接触が長期間途絶えている子どもには、「愛情を独占できる特定の大人が必要である」ことを、痛感しました。また、その子どもたちにとって、「週末里親」は通過点であり、最終的には「養育里親」が必要である、とも思い始めていました。
 施設長を説得して、その子が小3になる4月から施設に籍を置いたまま、私たちの家から学校に通うようになりました。授業が終われば一旦施設に帰り、私の仕事が終わった後、勤務先より迎えに行くという繰り返しです。妻は私たちより帰宅が遅く、夕食は遅くなりますが、今日一日の出来事を聞いてあげながらの食事は、本当に楽しいものでした。
 そして、その年の12月、措置変更により、児童相談所から正式にその子を、私たちの里子として受託しました。その後も放課後は、施設や学童保育所そして地域の方々の世話を受けながら小学校を卒業し、中、高校時代は部活に夢中になり、そして現在、大学の2回生になっています。そして「養子里親」でスタートした私たちは、「週末里親」を経て「養育里親」としてその子を預かり、18歳で里親・里子の関係は終了しましたが、その子がいない生活は、今では考えられないぐらい、家族のー員になってしまっています。しかし私たちの家を巣立っていく日は、直ぐそこまで近づいています。


 「週末里親」は里親会の働きかけもあって、滋賀県として平成17年に制度化され、里親宅で週末を迎えている于どもたちが増えており、今も私たちの家に、幼稚園の子どもがやって来ます。「週末里親」として私たちが関わってきた子どもたちも大きくなり、現在、親元に帰ったり、自活したりしており、時たま、週末に泊まりに来ます。

 そして、私たちが関わった干どもたちには教えるより、逆に教えられることがたくさんあり、「育て育てられた」という言葉が、一番ピッタリするような気がしています。


 老人介護の仕事をしている妻も、水環境の仕事をしている払も、定年が近づいており、定年後の生きかたを今、考えています。

 子どもは意識化され、都市人間となっていきますが、まだまだ自然性を多分に残しており、老人は自然に還るために、昔、持っていた自然性を思い出そうとしています。そこで「老人は子どもとのふれあいにより、子どもから自熱性を思い起こされ、逆に子どもは老人から、老人が子どもだった時代から連なる文化を伝承される」という関係が成り立ちます。

 私たちの住んでいるところでは、まだまだ田んぼや畑があり、土手や公園、鎮守の森には四季折々に変容する樹木があります。そして少し歩くと川のせせらぎが聞こえ、里山には雑木林が生い茂り、鳥や小説物の悽みかになっています。
このような自然のふところで、老人と子どもたちがふれあえる場所を提供し、自然の好きな私たちも、その中で年老いていくイメージが定着しつつあります。